今さら20年前の本を読んで、個人サイトを作った話

『インターネット的』を読んだ話

今さら、糸井重里著 『インターネット的』を読みました。 2014年に改訂版が出ているらしいのですが、 私が読んだのはオリジナルの2001年版で もう20年以上も昔の本になります。

この本は糸井氏が『ほぼ日刊イトイ新聞』というサイトを 運営し始めた頃に書かれた、インターネットについてのエッセイです。 内容としては「宣言書」と言ったほうが ニュアンスとして適切かもしれません。 広告業界で確固たる地位を気付いた糸井重里氏の、 「私はこれからインターネットに活動の主軸を移します。 だってインターネットはこんなに面白いんだから」 という当時の想いが、この本からは感じられました。

この本が書かれた2001年のインターネット人口は約2000万人。 個人がホームページを作れるようになった最初の時代で、 まだインターネットがどのように使われていくのか、 誰も分かっていませんでした。 宇宙で言うとビッグバンが起きて、 原子やが生成されようという段階でした。 ここから如何様にもその形を変えられる状況でした。

本書中で書かれているのは、 インターネットを使うの話です。 インターネットという双方向に発信できる アイテムが出てきたことで、 これからの世界はどう変わっていくのかという話。 そして、我々はどのようにあるべきなのかという話が 話題の中心になります。 これらについては、私は全面的に同意しかなく、 もう、本当に、「いい内容なので読んでみてください」以外に言葉がありません。

ただ、どういうボタンの掛け違いがあったのか、 2023年現在のインターネットはこの本で予言された内容とは かなり違った世界になっています。

20年前に語られたた夢と現実

本書を読んでいて、 「あぁ、そうなっていればどんなに良かったか」 と思うことは沢山あります。 裏を返せば、そうはならなかったもの達です。

子供の頃から20年以上インターネットを見てきて、 今現在もインターネットに関わる仕事をしている人間として、 思った私の考え書いていきます。

フラットな関係

例えばフラットな関係です。 インターネット上では、現実世界での地位は関係なく、 全員がフラットな状態でコミュニケーションが取れると 考えられていました。

当初そういったやり取りがあったと思います。 実際私も、ゲームが好きな人達のコミュニティに 参加していましたが、他の人がどんな人か最後まで 分かりませんでした。 年上なのかも、年下なのかも、性別すら謎のまま その人達と楽しく会話をしていました。 そして、そういったコミュニティは 今も完全にはなくなっていないと思います。

が。 やはり人はどんな場面であっても偉ぶりたいのでしょう。 20年という時間の積み重ねや、SNSでの数字の可視化によって、 現実とは異なる、インターネット上での 人格ヒエラルキーが誕生したと思います。

更に、最近ではインターネットと現実世界の境目がなくなり、 「インターネットが現実」になってきています。 現実で偉い人はやっぱりインターネットでも偉ぶりますし、 匿名のよく分からない人だけど、 沢山フォロワーがいて偉いっぽい人なんかも沢山います。 その偉い人の意見に従う沢山の人々という、小さい封建制が インターネットのあちこちで誕生することになりました。

実際にはそんな必要はないはずなのに。

善意によるシェア

書中で提唱されたシェアという概念があります。 誰でも発信が出来る時代になったことで、 善意で様々な情報が交換されていくことが予想されていました。 本の中で、このような一文があります。

かつてのビジネス一辺倒というか、お金一辺倒の時代には、 そんなことじゃ損をすると思われていた考え方だとも言えるでしょう。 でも、ソンなことはありません。損などしないんです。

実際、この本が書かれた頃のインターネットは シェアの精神で溢れていました。 当時の私と年も変わらぬ学生がまとめたと思われるゲームの攻略データベースも、 夜空を美しく写真で取る方法を解説した個人ページも、 掲示板で夜な夜な行われていたネットラジオも、 やる側には自己顕示や褒めて貰える以外のメリットはありません。 これを善意と呼んでいいかは疑問ですが、 いまよりもずっとシェアの時代だったと思います。 そういえば、フリーゲームの全盛もこの頃でしたね。

結局20年が経って、インターネットも 拝金主義の侵略に屈してしまいました。 大きな理由はインターネットが広告ビジネスになったことです。 いまや、1PV当たり0.01円の広告料を求めて、 インプレッションを奪い合う時代です。 とにかく見て貰えればいい。 出来ればリピーターになってもらいたいが、そうでなくてもいい。 下世話な週刊誌のようなやり方が、 利口なビジネスの皮を被って行われるようになりました。 この人達はお金が欲しいので、検索エンジンの 裏をかいて少しでもアクセス数を稼げるよう 数々の手を尽くしています。 それによって、こんな時代でもシェアの精神を持った人達の サイトはどんどん見えない位置に追いやられていきました。

別にコンテンツに対してお金を取ることが 悪と言っている訳ではないのです。 例えば、興味がある記事が有料であったとき、 その価値があると思えば私は躊躇なくお金を払います。 ただ、お金を取ることが目的となった悪貨が 予想されていた以上に、インターネットに 撒かれてしまったと思っているのです。

善意によるシェアは余裕から生まれます。 実際、この当時のインターネットは 暇な学生や主婦、仕事終わりの社会人が 現実の生活の傍らでやるものでした。 学校生活と放課後にやる習い事の違いのような感じでしょうか。 仕事を終えた後、何のお金にもならないけど、 気合いを入れて料理を作るような感じでしょうか。

次第にインターネットで生活をする人が増え、 そういった余裕がインターネットから失われていったように思えます。 アクセス数が伸びないと食費さえ出せない訳ですから、 それは必死になっていろんなコンテンツを出す 企業が増えました。

もちろん、大きなお金が動くようになるにつれ テレビ番組やイベントのような金額を投入した 企画がインターネット上で行われるようになり、 インターネットさえあれば、娯楽に困らなくなったことも事実です。

ムダを追い求める時間

ほとんど無数のムダの中に、 他所ではできないような観念的で解決しにくい問題が顔を出す。

インターネットの外のメディアに対して、新鮮なネタを追い続けて、大量に生産して大量に売ると表現しています。 インターネットでは、そのムダを追い求める時間ができると予想していました。 実際は大量消費のスピードが上がっただけでした。 多くのヒットが生まれても、次の瞬間には別のヒットが生まれています。 まだ、雑誌やテレビ番組であれば、誌面や放送時間の制限がありましたが、 インターネットは無限です。 一等星のように輝く大スターは生まれなくなり、 その代わりに、3等星や4等星が色んな場所で誕生することになりました。 もう、世の中のヒットを一人の人間が全て追うことは、実質的に不可能です。 本の中で「インターネットではビッグヒット以外のものにも焦点を当てられる」と 書いてありますが、それを世の中が飛び越えてしまった感じがします。

思うに、このときの糸井氏はインターネットが 世の中の中心的なメディア、人によっては人生の中心になると考えていなかったのではないでしょうか。 あくまでもインターネット外にある現実の世界がありきで、 そこではないインターネットとして捉えていたが故の、牧歌的世界になるのではないかという考えだったのだと思います。

「観念的で解決しにくい問題」に取り組むのではなく、 答えが出ないことを逆手に取って分断を煽り、 PVを稼ぐような手口が平気で出てくるようになりました。 これは、インターネットに余裕がなくなった一つの要因と言えるでしょう。 八百万の神を信じていたはずの日本人すら、 SNS上では宗教戦争じみた戦いを始めてしまったのです。

受信者と発信者という役割

この本の中で糸井氏は受信者と発信者という言葉をよく使っています。 アイディアを生み出してそれを世に出す人と、 それを受け取る人という関係です。 両者は時には入れ替わるかも知れないが、そういった関係が当時は当たり前でした。 しかし、現在のインターネットは「発信力だけが強くなった受信者」が沢山いるように思います。

糸井氏が2010年12月20日にこんな文章を書いています。

阿波踊りでは、 「踊る阿呆に、見る阿呆」というらしいけど、 そこでは「踊る阿呆」になる人が、 たっぷりといるみたいで、ずっと阿波踊りは続いてます。

歴史的に、人間という生きものには、 そういう特徴があるのかもしれませんが、 「踊る阿呆」よりも、「見る阿呆」のほうが、 ずっと数は多いようです。 そして、見ている側には、 阿呆と言われるような理由もないので、 「見る利口」のようになっていきます。 そう、つまり「踊る阿呆に、見る利口」です。

なにか言い出して「笑われる阿呆」よりも、 言い出した誰かのことを「つっこむ利口」のほうが、 何百倍もたくさんいるような気がします。

今のインターネットは見る利口 ・・・と自分のことを思っている阿呆が増えたように思います。 最初に何かに対して突っこむ人は利口だと思います。 しかし、SNSでその利口な意見に乗っかることで、 手軽に利口な立場に立っている、 ましては、自分が踊る人よりも上に立っていると 思っている人が沢山います。

個人サイトを作った話

さて。 ようやくこのサイトの話です。

私はこの20年前の文章を読んでいて、当時の牧歌的なインターネットを 自分の手で再現したいと思ったのです。 お金儲けの為ではなく、ビジネスの為の分析や戦略も抜きです。 (と言いながら、アクセス解析ツールは導入しているのですが・・・)

別に、この考え方を他の人に広めていこうとは思っていません。 多くの人には向上心があると思いますし、 その為にはきっと沢山のお金が必要になります。 それに、大多数の日本人はそんなに暇ではありません。

幸い、私にはプログラマーとしての仕事があり、当面は食いっぱぐれることはなさそうです。 (プログラマーという職はいいです。ものを作ってお金をもらう。お金をもらう理由が非常にシンプルです) そして、在宅勤務が大半のため、時間的余裕が少しだけあります。 そういった、人生における可処分所得な時間をこのサイトに 費やしていけたら思ったのです。

20年前の文化再現のため、さっき散々に書いてきた、 今のインターネットで失われつつあるものを取り戻したいと思います。

まず、フラットな関係のためにハンドルネームを使うことにしました。 私はかつて書いていたブログでは本名を出していましたが、 ここではハンドルネーム「北田共」で行くことにしました。 現実の私とインターネット上の私は関係ありません。 そして、私はインターネット上では何の影響力も持ちません。

次に、このサイトの運営自体も善意によるシェア中心で 行っていきたいと考えています。 このサイトでお金を取るつもりはありませんし、 逆に、お金が取れるほど精力的に更新していくつもりもありません。 自分が言いたいなと思ったことを、 自分の時間のあるときに載せていく。 そういった場所にしようと思っています。

また、このウェブサイトのソースコードは 全て GitHub で公開しています。 現役のプログラマーが真面目に作ったプログラムを 無償公開することは善意によるシェアと称して 差し支えないと思うのですが、どうでしょうか。

最後に、ムダを追い求める時間 、 そして、発信者 という役割についてです。 私はこのサイトのコーディングに正月休みの大半を費やしました。 そして、2023年の現在に、2001年に書かれた本について 原稿用紙10枚分もの文章を書いています。 バズ・マーケティングの法則に従うのであれば、 正気とは思えません。 私はこれからも 「特に話題になってはいないけれど発信したいこと」 をここから発信していきます。 それが、自分が一番欲しいものだからです。 そして、この記事の内容について 「結局お前、本の内容について意見書いてるだけの、 もの言う受信者じゃないか」と言ったあなた。 もし、それを、パブリックな場所で口にしようと思うのであれば、 このサイトと同じレベルのWebサイトを1から作って この記事と同じ分量の文章を書いてから言えよ。

最後にもう一度言いますが、私はこの考え方が広がるとは 全く考えていません。 そもそも、TwitterやFacebookを開けば有名人に 直接話しかけられる今のインターネットも大好きです。 YouTubeを開けばテレビから放送電波が飛んでないようなド深夜でも 何かしら面白いものを見ることが出来る 今のインターネットも大好きです。 でも、どうしても好きになれない部分もある。 そういった思いをぶつけるため、完全なる自己満足でこのサイトを作りました。

いつまで続くか分かりません。 この記事を最後に飽きてしまうかもしれませんが、 気に入ってくださったら、応援していただけると嬉しいです。

(終)

没文章

元々、自分の経験を活かして具体的な名称や 実際にあった事象を書いていこうと思っていました。 しかし、具体的に書いていけば行くほど 本質からどんどんピントがずれていくような気がして、 結局、本文からはその大半を削除しました。

また、後半も文章として面白いだけで、 内容と関係ない文章がいくつかあったので、 削除しました。

もったいないので、以下に残しておきます。 誌面の制限を受けないインターネットの記事なので できることですね。

(「『インターネット的』を読んで」の没) 当時のインターネット人口は2000万人。 PCを持った人達が「ジオシティーズ」などのウェブサイト提供スペースに 『HTML & JavaScript 辞典』(まだCSSなんてものはありませでした)を片手にタグ打ちして、 各々でホームページを作っていた時代です。 当時、無償プランだと1つのサイトに上げられる総容量は5MBしかありませんでした。 今のように特定のサービスに多くの人が集まるようなことは「2ちゃんねる」くらいしかなく、 小さなコミュニティで数人とやり取りをすることが主でした。 また、この頃はPCをわざわざ立ち上げる必要があったり、 インターネット自体も使用時間による従量課金制であったため、 多くの人にとっては日常に入り込むにはハードルが高かったと記憶しています。

(以下3つとも「善意によるシェア」の没) 大きな転換点になったのは2003年の「グーグルアドセンス」や 2004年の「アマゾンアソシエイツ」といった広告サービスです。 これらが出た当初は本気で稼ごうとしているよりも、 新しいコンテンツとして楽しんでいる人のほうが多かった印象です。 例えば、当時はやっていた「100の質問」を アマゾンアソシエイツの対応商品だけで答えるという大喜利を 人なんかもいました。

時代は変わっていき、大金を手にするブロガーが出てきました。 他の人がお金を稼いでいるのに、 自分は無償で同じ事をするのは馬鹿らしいです。 余程の善人か、よほどの変わり者しかいません。

ちょっとだけお金の話を深掘りさせてください。 そもそも、「ほぼ日刊イトイ新聞」にはアクセス数によって 運営にお金が入るような アフィリエイトシステムは恐らくありません。 ほぼ日手帳など物販による収益で 賄っています。 つまり、あのサイトはコンテンツそのものによる マネタイズをしていないのです。 (以下を追記しておく。要再構成 : ほぼ日が出しているIR資料を見たところ 「ほぼ日の學校」は コンテンツの視聴料を取る形での マネタイズを行っていました。 「時代が変われば、ほぼ日も変わります」みたいな、堅さ緩和用の一文入れたい?) つまり、テレビにCMを打つ代わりに、 そのお金で一つのウェブサイトを運営して、 人を集めているのです。 このビジネスモデルだと、 どれだけ話題になって人を集めてもダメです。 来てくれた人にファンになってもらわないと、 そして実際にお金を使ってもらわないと、 収益になりません。 まさに 「そんなことじゃ損をすると思われていた考え方だとも言えるでしょう。 でも、ソンなことはありません。損などしないんです。」 なのです。

(「ムダを追い求める時間」の没) ステルスマーケティングによって、本当にその人がムダを追い求めているのかを 読み取ることが難しくなってしまいました。 別にそれがステルスマーケティングであったとしても、 よい物に出会えたならば、本来はそれでよしと考えるべきなのでしょうが、 どうしても人は踊らされたくないという本能があるようで、 色んな記事を見たときに一歩立ち止まって考えるようになってしまいました。 『妻と義母』という有名な隠し絵があります。 一見すると帽子を被った若い女性が奥を向いているの絵なのですが、 見方を変えると、老婆の横顔にも見えるという絵です。 この絵の興味深いところは、 一度老婆に見えると知ってしまったら最後、 もうその絵を単なる若い女性の絵として見ることができなくなるのです。 常に横を向いた老婆の顔が覗くのです。 これは、ステルスマーケティングという手法を知ってしまった後に、 インフルエンサーの発信する情報を見るときの見方とよく似ています。 いちど脳内に入れてしまった情報は、 簡単には忘れてしまうことができないのです。

(「個人サイトを作った話」の没) 今の時代は個人サイトを持ってもほとんどお金がかかりません。 このサイトは Google Cloud が提供する Firebase 上にホスティングしていますが、 1GBのファイルを持っても月額 0.026ドル。日本円にして3円です。 現実的に考えて、端数として切り捨てられて課金されることはないでしょう。 Web の技術の進化により当時よりもリッチなサイトを、 本当に簡潔に作れるようになりました。 特にCSSの進化は目まぐるしく、昔はお洒落なサイトを持つ際に必須であった CSSフレームワークも必要ないレベルで、簡単にレイアウトが組めるようになりました。 Next.js, React.js, Webpack といった優れたフレームワークや 開発ツールも無償で使うことができます。 今、わたしがコーディングや文章作成に使っている Visual Studio Code も、もちろん無償です。 昔は本を買うしかなかったHTMLの書き方も、Web上に充実したドキュメントが無償で提供されています。 Web の世界は「シェア」で満ちています。

(終)