モーニングルーティーンがない私
習慣付けるのが苦手な私
私は何かを習慣づけて行うことが苦手だ。 何か始めようとしても、三日坊主なら良いほうで、 大抵は最初の一回が最後の一回になって終わる。 朝のジョギング、お風呂前の筋トレ、寝る前の英語の勉強、 夕食後の楽器の練習、そして毎週末朝に書くと宣言したこのブログ。 何もかも、続いていない。
図書館で借りてきた本
一体なぜなのか。 「それはお前の心が弱いからだよ」と赤ずきんに出てくるオオカミが正論を言ってくる。 いや、きっとそれだけではないはずだ。 これだけ酷いのであれば、それはなにか研究がされているに違いない。 そう思って、図書館でそれっぽいコーナーを見て、 『習慣と脳の科学』というタイトルのを借りてきた。 著者はスタンフォード大学の教授らしい。なんとも信頼できそうではないか。 これから何か言われたとしても「でも、スタンフォード大学の先生が書いた本を読んだらさ」 と言えば、その瞬間、口喧嘩は勝ちが確定するに違いない。
あなたにはモーニングルーティーンがあるか?
さて、その第一文を読んだ瞬間いきなり躓いた。 「あなたの朝のルーチンは何だろうか。」 私にはそういったものがない。 流動的とかではなく、本当にないのだ。 これを読んでいるあなたにも問いたい。 あなたにはモーニングルーティーンと呼ばれるものを持っているだろうか?
私の場合、起きるとまず、何を食べるか考える所から始める。 決まったものを毎日食べていると、5日と経たず飽きてしまうので、 必ず毎日違うものを食べるようにしている。 それがトーストであれば食パンを焼く。 ご飯であれば、冷凍庫のご飯を解凍する。 日によっては、コンビニのサラダが食べたい時もあるので、 そういうときはまず顔を洗って、歯を磨き、身支度をして買い物に行く。
いつ顔を洗うかも流動的だ。 トーストと一緒に食べたいものが、インスタントのスープであれば、 お湯を沸かす時間に顔を洗いに行くが、 スクランブルエッグやレタスのサラダであれば、調理しないといけないので、 顔を洗うのは食事のあとだ。 歯を磨くのも、その日の気分で食前に磨くか、食後に磨くか決める。
さらに、日によっては急に「走りたい」と思う時があるので、 この全ルーティーンの前に、着替えて町内を1周するという行動が挟まる日もある。
極めて流動的で、かつ、すべての行動について「判断」を要していることに気が付いた。 今まで、そのような視点で自分の生活をみつめたことがなかったので、驚いた。 ただ、朝の時間というほんの一部でも、決まったことをするのは詰まらないのではないかとも思う。 私はとにかく、前の日と同じ一日を過ごした気になるのが嫌なのだ。 在宅ワークで景色に代わり映えのない日々なので、尚更そう思うのだ。
本の続き
だいたい、この著者はスタンフォードの教授になる位に有能な人であるから、 朝の行動をルーチンとして、何も考えずに行うことが出来るのだ。 そう思って読み進めることにした。 1890年に出版されたその分野の名著『心理学』という本の引用が入る。
何も習慣化されておらず、すべてに対して優柔不断な人間ほど、 惨めなものはない。 葉巻を付けるたび、コップの飲み物を口に運ぶたび、 毎日の起き、眠る度、一日の仕事を始める度に、 その行動において明確な意思を持って 熟考しなければならないからだ。 このような人の一日の半分は、 習慣化していればほとんど意識せずにできるはずの事柄を決めたり、 悩んだりするために費やされているのである。
一旦、本を閉じた。 どうやら、この口喧嘩は私は分が悪いらしい。
言われてみるとそうだ。 朝起きたあと、何も考えなければ20分で終わりそうな身支度も、 何からやるかをじっくり考えているせいで、 1時間半はかかっている。 朝食を食べて、顔を洗って、歯を磨いて、着替えているだけなのにである。
だが、この人達を私には一つ、決定的な違いがある。 それは、ルーティーンの前後に「楽しみ」があるのである。 朝食を終えた後に、非常に刺激的な仕事が待っていたり、 プライベートでは沢山の仲間と出掛けたりするのだろう。 私にはそれがないので、人がルーティーンとして消化してしまう、 ささやかな日常を、ちょっとだけ変えることによって、 耐えがたき退屈さから脱しようと努力しているのである。
それに対して 「そんな人間ほど、惨めなものはない」と言われてしまうと もう私には白旗を上げることしかできないのだが。